父よ、‥私の願い通りにではなく、御心のままに。(マタイ26/39)
「わたしをおいて行くのか」という、この言葉が私の出発点であり原点です。体中にこの言葉が繰り返しこだまの如く鳴り響く様子に戸惑いを感じ、ある人に相談し、ありのままを話して、「あなたは呼ばれている、行きなさい。」と私の背中を押してくれました。
あれから60年、何事につけても一生懸命の歳月ではあったが、ときおり挫折して「どうして私のやろうと思っていることに立ちはだかるのですか?私はもうあなたに何も話しません。」と主に向かって泣いたこともあります。でも、これで良いのだろうと理解したのはここ10年程前、主のみ心を知るのに随分と時間がかかりました。
日常生活の中で、何気なくしたこと、例えば手紙やハガキを書くこと、電話をかけること、人を訪ねることなど、些細なことが相手にとって一番必要な時であったり、その些細なことが相手にとって大切な場所であったりすることがよくあります。後で、ご本人からそれをきいて、私は只々「そうでしたか、良かったですね。私も嬉しいです。」とお礼を述べるばかりです。「只々良かった。」私の知らぬ間に、主のみ心が行われているなら、それが私の喜びです。
四旬節に寄せて「十字架のイエス・キリストをひとりぼっちにさせない。」ことだと思っています。弟子たちは3年間、あれほどイエス・キリストと共に生活をし、教えを受けたにも関わらず、ヨハネ以外の者は皆、十字架のイエス・キリストのそばに立っていることができませんでした。キリストの道は厳しいものではありましたが、復活によってみごとに弟子たちの信仰が新しくよみがえったように、私も日々新たにされながら、今日も明日も、その又あしたも、人びとの中に混じりながら主のみことばを伝える宣教者であり続けたい、一人ではなく主と共に、そのことが嬉しくてならない今日この頃です。
「自販機のコトリと告げる春の音」(K.U)