エルサレムのために平和を祈ろう。
エルサレムのために平和を求めよう。あなたを愛する人々に平安があるように。私の兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」・・主よ、わたしたちを憐れんでください。平然と生きる者らの嘲笑に、 傲然と生きる者らの侮りに私たちの魂はあまりにも飽かされています。(詩編122/6・8・ 123/3・4)
平和の象徴であるはずの聖地エルサレムは、何世紀にもわたって戦禍に喘いでいます。イスラエルとガザの人々は今日も戦乱の中で苦しんでいます。そして、世界の国々のあちこちが自国第一主義、移民の排除を掲げ政治的混乱をひき起こしています。どうしてこのようなことが起こってしまうのでしょうか。あの忌まわしいナチス収容所から生き残ったビクトール・フランクル(精神科医)は第二次世界大戦後20年経過して一応、平和と自由を取り戻したと思えた状況の中でも、生きる意味の喪失、空虚感を抱いている若者が多いと、その著書「夜と霧」と講演の中で語っています。人は自己過剰観察に陥り、鏡で自分の顔ばかりを見つめ、自分の問題で心がいっぱいになり、他者からどう見られているかばかりが気になり、自分以外に目を向けなくなり、個人主義に陥ります。2024年の現代においてなおそれは顕著です。SNSやAIといったハイテクノロジーに囲まれた私たちはスマホを見ていれば他者を必要としません。それが心の空虚感につながり、生きる意味を見失っていくというのです。空虚感を満たすために、快楽やアルコール、ドラッグに走る若者も多いのが現状だそうです。
私たちは何で心の空虚を埋めましょうか。収容所でのフランクルの体験は「すべての希望・生きる意味をはく奪された・・・収容所のバラックの隅で体験することのできる一寸した祈りや礼拝は最も印象的なものだった。」と記しています。私たちも祈りましょう。そして、兄弟とともにある祈りのなかでイエス・キリストが私たちの心を満たしてくださいますように。(M・F)