原爆の記憶
今年も8月9日が来る。“ああ許すまじ、原爆を!”
高校生時代、毎年、平和公園の記念式典で歌ったあの歌がよみがえる。ここ、ときわ荘の恵の丘公園は、当時純心学徒隊が避難・活動した場所である。筆者も被爆者の一人だが、なにしろ乳児(1才)の時の出来事で当時の状況(防空壕内で閃光が光ったので、母が急いで私に毛布をかぶせた。というくらいしか)を知ることはできない。ここで少しだけ残っている記憶をたどれば、被爆後 10年を経た小学生のころからのことがよみがえる。小学校の校舎は被爆し、大勢の生徒が犠牲なった。生き残った生徒たちの中には闘病の末、亡くなっていくこともあった。顔や手にケロイドの傷が生々しい、女友達もいた。校庭の一角に設けられた記念碑「あの子らの碑」の前で全校生徒が追悼の祈りを捧げるのは毎年の行事であった。教会ではいつの頃からか子供の「けいこ」(教理の勉強会)が始まっており、友達と集う喜びで、休み時間には浦上天主堂の瓦礫の中で冒険ごっこをして遊んだりした。時々アメリカ兵が集団でこの瓦礫を見に来て、遊んでいる子供たちにチュウインガムやチョコレートを配った。帰宅して母からそれをもらったのではないかとひどく叱られた覚えがある。
それから78年も過ぎ、人生の最後に図らずもここの高齢者施設に入居し、図書室で「純女学徒隊難の記録」(純心女子学園・創立80周年記念再刊版)を開いた。そこには創立者のシスターや、教師方の体験はもとより、当時13~15歳だった少女たちが学徒隊として勤労奉仕の最中に散っていったことが記されていた。ページをめくるたびに涙した。この体験記については学生時代に記念日が来るたびに校長訓話の中で聞かされてきたと思うが、その時はある種の運命としかとらえていなかったのではないかと思う。
ヒロシマでも後遺症や偏見が被爆者を苦しめた。被爆後20年のこのころでさえ【そこでおこなわれた人類の最悪の悲惨をすっかり忘れてしまおうとしているのだ。(ヒロシマ・ノート=大江健三郎著P106)】ましてや、もうすぐ80年を迎えようとしている現在、そして世界のあちこちで紛争があり、こんなにも核兵器の使用に脅されている状況にあっても、そして先日のG7広島サミットにおいてさえ、核拡散防止条約の進展は見られなかった。
しかし今ここで、失望するわけにはいかない。【真に広島(長崎-筆者付け加え)の思想を体現する人々、決して失望せず、しかも決して過度の希望をもたず、いかなる状況においても屈服しないで、日々の仕事を続けている人々・・・に連帯】(ヒロシマ・ノート)していくことが、私たちに課された使命であると思う。M・F